パニック症

僕がパニック症・広場恐怖症を克服した方法

2018年1月25日、僕は地元の心療内科でパニック症と診断されました。

最初は、パニック症ってなに?パニックになったことなんてないぞと思ったりしましたが、どうやら僕の当時の症状はパニック症といわれるものでした。

パニック症ってなに?

パニック発作(動悸や呼吸困難)のあと、また発作が起こるのではないかという心配(予期不安)が1ヵ月以上つづいたり、発作と関連して行動に大きな変化(広場恐怖症)が出る場合をいう。

(出典:「よくわかるパニック症・広場恐怖症・PTSD」 監修:貝谷久宜)

とパニック症を専門とするお医者さんが監修している本には記載されています。当時の僕は、呼吸困難(いわゆる過呼吸)になることがあり、日常の生活に支障をきたしている状態でした。

▽僕が参考にした本です▽

パニック症を発症したきっかけ

2018年の1月、大雪の日でした。

僕は友人に会うために都内へ行っていました。天気予報で雪が降るということは聞いていたけど、なんとかなるだろうと、友人とごはんを食べて夕方18時くらいに解散しました。しかし電車に乗ろうとしたら、案の定ダイヤは大幅に乱れており、多くの人が帰宅のために同じ電車に乗ることになりました。今までなんども満員電車に乗ったことはありますが、その日の混み具合は異様な感じがしました。僕はその電車のちょうど真ん中に立っていて、周りを360度人に囲まれて、身動きが取れないような状況でした。

とは言え、帰宅するには我慢しなくてはいけないので、その状況でも1駅、2駅、3駅と過ぎていきました。ちょうど3、4駅過ぎたあたりでしょうか、電車が緊急停止しました。東京では珍しい大雪の日だったので、電車が止まることは仕方ないとは思いながらも、10分強停車していたので大変長く感じました。しばらくして電車は出発しましたが、また停止。その際に電車のアナウンスが流れました。

「ただ今急病のお客様の看護のため電車を一時停止しております。」

普段だと何気なく聞いてスルーしているアナウンスが、なぜだかその時は自分事のように感じられてしまい、突然言いようのない不安を感じ始めました。

「この状況で自分が体調悪くなったらどうしよう」

「そもそもこんな満員電車の真ん中にいたら外に出るのも大変だ」

そんなことが頭によぎっていました。しばらくして電車は出発しましたが、なぜか不安は収まりません。その内に身体症状が現れてきて、胸がなんとなく重いような、息苦しいような感じを持ち始めました。

「これはなんかおかしいぞ」「まずいなぁ」

そうこうしているうちに電車は次の駅につきました。僕はもうここで降りるしかないと思い、やっとの思いで人混みを抜け出し、何とか電車のドアが閉まるぎりぎりのところで出ることができました。もしそこで出ていなかったら、僕は電車の中で過呼吸状態に陥っていたと思います。出れていなかったらと考えると、今でも強い恐怖を覚えます。

やっとの思いでホームに降り立ち、次の電車を待つことにしましたが、胸のざわつきは落ち着かず、いったん休むことにしました。寒い日だったので、駅の近くにあったモスバーガーに入り、クラムチャウダーを頼みました。スープを飲みながら1時間ほど休憩したのち、再度電車に乗りました。

しかし電車に乗って間もなく、先ほどと同じような症状が出てきました。

その電車はそれほど満員ではなかったのに、息苦しさを覚え、いまにも過呼吸になりそうな感覚に陥りました。その時は、「早く次の駅に着いてくれ!」と祈るように思っていたと思います。

結果的に、僕は次の駅でまた降りてしまいました。

息苦しさがなかなか収まらなかった僕は、駅員さんに声をかけ、駅構内の休憩室で休ませてもらうことにしました。しばらく横になっていましたが、動悸は収まらず、もしかしたら「心臓発作みたいなものなのか?」と怖くなった僕は、駅員さんに頼んで救急車を呼んでもらいました。

救急隊員の方が来て、一緒に歩いて救急車まで行き、病院まで搬送してもらいました。道中救急隊員の質問に答えていく中で、だんだんと呼吸は落ち着いていき、病院に着くころには不思議と動悸や息苦しさはほぼなくなっていました。

病院では、お医者さんが血液と心臓の検査をしてくれ、結果は問題なしとなりました。当然検査結果が異常なしとなったので、帰宅することに。ただ、その日はもう電車に乗る「勇気」が持てず、近くのホテルに泊まろうとしました。しかし、大雪のため多くの人がホテルを取っており、全て満室という状態でした。仕方なく、ぎりぎりあった終電で帰ることに。

しかし、「電車=過呼吸になる」というイメージがこびりついてしまっていた僕は、一人で帰ることがとてもできないと考え、ホームに立っていた全く知らない男性の方に声をかけ一緒に帰ってもらうことにしました(笑)

事情を説明したら分かってくれて、30分ほどでしょうか、電車でお話をしながら帰りました。仕事の話やなんやらと色々と話をしましたが、僕は体調のことが気掛かりで不安定だったので、その方もひやひやしながら話をしてくれていたんじゃないかと思います(汗)

もちろん、後にも先にも電車のホームでばったり会った人に一緒に帰ってくださいと言うことはありませんが、その時は自分が家に帰るために必死だったんだと思います。。。

本当に快く一緒に帰ってくれた男性には感謝です。

さて、これがパニック症を発症したきっかけになりますが、ここから日々の生活が一変します。

パニック症と診断され、生活が一変する

大雪の日以来、電車に乗る度に不安を覚えるようになりました。

当時は、それまで働いていた会社をやめ、転職活動をしていた時期でした。幸か不幸か、毎日電車に乗らなくてはいけないという状況ではなかったため、電車に乗る機会は多くはありませんでした。しかし、特に満員電車になると当時の情景が思い出され、途中下車してしまうということが増えてきました。いったん途中下車すると、再び乗るのは相当な勇気を必要とします。結果的に、ホームの椅子に座りながら来る電車を何本も見送るということが幾度もありました。

電車に乗れないと、残る交通手段は「タクシー」しかなくなります。僕は次第に、電車に乗る恐怖から、途中下車してはタクシーに乗車をするという’’負の連鎖’’に陥ることになります。電車だと数百円の距離なのに、わざわざタクシーに乗ることで数千円かかってしまうのです。それでも、当時の自分が移動するためには、「タクシー」という手段が安心できる、唯一の交通手段でした。

さすがにこのままじゃ「お金」も「身体」もついていけないと思った僕は、心療内科を受診しました。そこで初めて「パニック症」という診断を受け、自分が病気だということを自覚することになります。「抗不安薬」の処方を受け、それを飲み電車に乗るという日々を過ごすことになりました。薬が効かないときもあり、また電車から途中下車してしまったり、何か食べていないと落ち着かないのでで、電車に乗るときは必ずグミを買って食べながら乗ったりと、’’自分なりに頑張って’’電車に乗っていました。

しかしそのだましだましの生活をつづけながらも、症状は一向に改善の兆しを見せず、やがて電車以外にも影響が波及していきました。

僕は「セカンドオピニオン」のために、別の病院を受診することにしました。

しかし、ここからがパニック症との本当の意味での「闘い」の始まりとなります。

▽電車に乗れなくなったときに読みました▽

薬を多量摂取、3回病院をかえることに・・・

見出しからしてやばそうという感じですが、まさにこの通りのことをやってしまいました。

絶対にやってはいけないであろう、「薬の多量摂取」です。

当時セカンドオピニオンで受診した、2つ目の病院に通い始めました。先生は大学教授もしている有名な方で、僕もネットで調べて受診を決めました。そこでは、1回目の病院とは異なる種類の薬が出て、計2種類の薬の処方を受けました。

ただここで、薬の飲み方がいまいち良く分からなかったのです。

先生は、「不安になったら飲んでね」と言ってくれて、一応1日3回という風に処方箋上は決まっているのですが、

「この薬は弱いから、飲みすぎなければ大丈夫」と言うのです。

当時の僕は、「不安なときに飲めばいいんだ」と解釈をしました。ただ、’’不安なとき’’というのはなんとも曖昧な表現で、その不安がパニック症の不安からくるものなのか、通常誰でも感じるような不安なのか、区別がつきづらいのです。

最初は、1日3回を目安に薬を飲んでいたものが、次第に4、5、6、7回と増えていきました。しかし、飲んでも飲んでも一時的には効果はあったとしても、根本的な症状の解決にはつながりませんでした。

しかも、当時何を思ったか、喘息で処方してもらった吸入器で気管を拡げたら息苦しさはなくなるのではと考え、それを使ったりしていました。後日診察の際に先生に話すと、「そんなことしたら絶対にダメだ!いますぐやめなさい」と強い口調でお叱りを受けました。今思えば当たり前のことなんですが、当時の僕は迷える子羊状態で、お医者さんの言うことも信用できず、自己流に陥っていたのだと思います。

ここで「また、病院を変える」ことにします。

今度は、少し遠いですが、都内まで通うことにしました。その先生も有名な方で書籍なども出している方でした。話をじっくりと聞いてくれて、穏やかな先生でした。そこでは、カウンセラーの方にもついて頂き、「認知行動療法」も受けました。

認知行動療法とは、精神療法のひとつで、思考や行動の癖を把握し、自分の認知・行動パターンを整えていくことで生活や仕事上のストレスを減らしていく方法のことをいう

(参考:「認知行動療法(CBT)とは?」https://snabi.jp/article/39

マンツーマンでじっくり話を聞いてくれて、自分の不安度を紙に書いたり、実際に行動目標としてハードルが低いところから行動していくなど、薬物療法とは違うアプローチに取り組みました。認知行動療法は計6回ほど取り組みました。その間にカウンセラーの方と決めた行動目標を実行しましたが、思うような成果はでませんでした。

例えば、次の診察までに電車に3回乗るという目標を決めます。僕は宿題として、用事がある・ないに関わらずそれに挑戦します。しかし実際は、駅のホームに着くと、電車が来る音を聞いただけで不安が募り、ドキドキしてきます。結局電車に乗る勇気を持てずに見送ったり、乗っても途中下車してしまったりと、宿題を十分こなせずに再度カウンセリングを受けます。宿題をこなせないと、「今回もできなかった」とか「また振り出しから始めないと」といった感情が生まれやすく、自己嫌悪に陥ることもありました。

そうこうしている内に、主治医の先生からそろそろ認知行動療法をやめてもいいのではないかという話をもらいました。確かに既に6回ほど受けており、これ以上やっても同じかなという気持ちがあったので、認知行動療法は終えました。

その際に、先生から「マインドフルネス」と言って、「ヨガ」や「瞑想」などを治療に取り入れている病院があるという話を聞きました。そういう病院はなかなかないのと、僕自身ヨガや瞑想に関心があったこともあり、すぐにその病院を紹介してもらいました。

これでいよいよ4つ目の病院にきたことになります。1つ目の病院にかかったのが2018年の1月、最後の4つ目の病院の初診が2018年の9月。最初の診断から実に8ヵ月ほどたっており、その間に僕の症状は確実に悪化していました。その頃には外出すること自体が恐怖となっていて、家にほぼ引きこもりの状態でした。友達との連絡も避けるようになっていき、悶々とした日々を過ごしていました。

最後のチャンスではないけれど、藁にもすがる思いで、4つ目の病院のドアを叩くことになります。そしてこれが、急激に症状が回復するきっかけになるのです。

先生の言葉で意識が変わった

初診で一番最初に先生に言われた言葉。

「この病気を甘く見ると人生台無しにする」

この言葉を聞いて、「これは本当にやばくなってきた」、「真剣に取り組まないと自分が本当にダメになってしまう」と思いました。

それまでは、どこか「気の持ちよう」だとか、「その内治る」とか、空ポジティブな一面もあったのですが、本当の意味で危機感を持ちました。

そこから、本格的な治療に入ります。

まず、「お酒は禁止」

それまでは、薬を服用時以外は、たしなむ程度にお酒は飲んでいましたが、その日から一切お酒を口にしないことに。

また、これまで頓服的に飲んでいた薬を一日2回という形で固定して、規律を持たせていきました。(ここでは誤解を防ぐために具体名の明記は控えますが、薬の種類も変わりました。)

さらに、「集団認知行動療法」という、自分と同じような症状の人が少人数でグループとなり、専門のカウンセラーのもと治療を受ける療法も始めました。

薬物療法でしっかりと発作を止め、集団認知行動療法を通じて、根本的な問題(脳の意識など)に取り組む。ようやく理にかなった治療法が確立した瞬間でした。

集団認知行動療法で得たもの

集団認知行動療法は、様々な利点がありました。

まず、共に病と闘う仲間ができたことです。これまで一人で悶々としながら病と向き合っていましたが、自分と同じように苦しんでいる人たちと出会うことができました。症状は少し異なっていても、みんなそれぞれ抱えている問題は深刻で、「辛いのは自分だけじゃない」と思えることができました。

集団認知行動療法では、「理論」と「実践」が融合されています。

「理論」では、なぜパニック発作が起きるのか、メカニズムや脳の思考回路、どのようにしたら克服できるのかを学びました。

「実践」では、’’実際にみんなで電車に乗る’’ということを行いました。

僕の場合は、カウンセラー2人と患者4人で一緒に電車に乗り、病院の一番近い駅からスタートし、何回か乗り換えをして戻ってくるという10分ほどの距離でした。患者の中には、何年も電車に乗っていないという人もいて、僕も含めてみんな緊張していましたが、誰一人脱落することなく、無事に10分の電車の旅を終えることができました。

これまで何度も電車に乗っては降り、勇気が出なかった自分が、都内でそこそこ混んでいる電車に再び乗ることができた。しかも僕だけでなく、全員が違和感を感じることなく電車に乗れたことは、非常に大きな自信となりました。

仕事をスタート、そして海外へ

薬物療法と集団認知行動療法を地道に続けていく中で、徐々に電車移動にもなれてきた僕は、転職活動を再びスタートさせました。最初は慣れていくためにも、移動が多い営業職ではなく、オフィス系の業務が良いと考え「経理職」につくことにしました。

パニック症の引きこもり期間に、日商簿記2級を取っていたので、幸いにも内定を頂くことができました。仕事が始まってからは毎日のように電車に乗り、行っては帰るという生活をしていたので、すっかり移動も手慣れたものになりました。次第に、自分が’’パニック症’’であるという事実を意識することすらも少なくなってきたと思います。

僕はもともと学生時代にオーストラリアに留学したり、仕事で海外にいったりと、海外志向が強かったので、体調が良くなるとともに海外への憧れが再燃しました。

同時に、今後の自分のキャリアを考えたときに、何か『専門性』を身に着けたいという想いがありました。以前の職場で小さい事業をスタートした際に、自分の管理の甘さ、特に財務面の弱さを痛感していたので、『ファイナンス』を学びたい!という想いを持ちました。加えて、グローバルな世界で仕事がしたいと思っていたので、海外の大学院に進学するという道を選ぶことに。場所は、学生時代にも行ったことのあるオーストラリア。オーストラリアで、第2のキャリアに向けて踏み出そう。と心に決めました。

そして2019年の暮れ、無事に第一希望の大学院から合格通知を頂きました。また、大学院を決める前に自分の目で一目確認したいと考え、飛行機に乗ってオーストラリアを訪れました。2年前の自分には、飛行機に乗ることなど、考えることができませんでした。専門の医師のもとで、決められた治療を行うことで、ここまで良くなったのです。今では、パニック症にかかる前よりも意欲的に物事に取り組めている気がします。

パニック症は本当に辛い病気です。家族、友人、担当医師・カウンセラー、会社の上司・同僚など周りの理解とサポートがあったからこそ治療に取り組み、社会復帰ができました。パニック症とひとくくりにしても、症状や状況は様々だと思いますが、’’きっと良くなる’’という希望を持って日々を過ごしていけたらいいですよね。

僕も一回良くなったからといって油断はできません。今後も「体調」と「心」のケアをしながら、生活していきたいと思います。